技術政策の貧困

技術政策の貧困
    ―「科学技術」と「科学・技術」によせてー
                          木本忠昭
 12月16日、高橋智子氏が「科学技術と科学・技術をめぐって」という論攷を投稿頂いた。その前日、朝日新聞が、「科学と技術の間には・・・・[・]の攻防」という記事を掲載していた(行方史郎)。高橋氏は以前からの研究をもとにして、この記事も参照されながら投稿されたものであろう。
高橋氏は、「科学技術」ではなく「科学・技術」という用語を用いるべきという日本学術会議の正しい提言が、きちんと受け入れられて欲しいという願いとともに、どうなるかの危惧の念をもっておられることがうかがえるものであった。
氏の論攷に触発されてだが、朝日新聞記事を少し紹介しながら、そこに紹介されていない問題を指摘しておきたい。朝日記事は、1月に日本学術会議が科学技術の用語使用で純粋な学術研究の軽視につながっていると指摘、8月には科学技術基本法を科学・技術の用語に改める改正を勧告したこと、この動きにより、総合科学技術会議の「第4期科学技術基本計画」草案や『科学技術白書』、「新成長戦略」では「科学・技術」の用語が用いられたこと、しかし、12月15日の総合科学技術会議の前記「基本計画」案のまとめを前にして、再び「科学技術」を使用することに戻る案が出されている、との報道であった。その上で、科学界では、どちらの用語を用いるか二つに割れているとして、「科学・技術」派に村上陽一郎氏、「科学技術」派に吉川弘之元学術会議会長、市川惇信元国立環境研究所長、それに見当違いの意見を述べている金田一秀穂氏などをあげている。
この問題は、科学観、技術観の問題であり、高橋氏も指摘しているように、科学論技術論の研究者には古くから論議されてきたものである。ここには技術をどう見るかの問題が深く関わっていることも明らかになっている。戦前には、科学の主観的応用によって物質的諸力の不足を打開できるという、日独協力下で影響を受けたナチス的な科学観技術観の日本版・大和魂版によって、日本の所有する技術的基盤を客観的に分析することを妨げた。戦後には、戦時経済の負の遺産としての欧米との圧倒的な科学・技術格差のなかで、「ともかく技術を持ってくればいいのだ」と叱咤したような、かっての原子力委員長の技術観は、ながく「自主技術」展開を妨げ、垂れ流し公害を助長し、IBMスパイ事件を起こすような外国技術追随路線につながるものであった。
 たしかに、朝日記事が紹介しているように、日本学術会議での、「科学技術」という用語への危惧は、「純粋な学術研究の軽視」につながっているということにあったであろう。たしかに、応用的な可能性をもった部門に巨大な研究費を投入する重点投資型が、積極的な科学技術政策であるかのような見方が横行している。実際にも、「重点」大学では、様々な省庁関係からの資金が集中し、1研究室で10億を超す研究費をやりくりするような大学研究室が現れる一方、すぐには応用に結びつきそうにない分野では研究費の欠如に苦しむという状況がうまれて久しい。こうして、研究者も研究費を獲得するために短期実現型研究に走る風潮への懸念は一般的になっている。
 しかし、「科学・技術」の用語を嫌うことの問題は、実は、このような「純粋」科学研究に対するしわ寄せだけではないのである。もっと重要な問題は、技術に関する軽視があることである。実用をめざす課題への重点投資だから、技術は当然重要視しているであろうと思われるが、実は、「科学技術」観論者は技術を重視しているとはいえないのである。朝日記事のいうように、小惑星探査機「はやぶさ」も、「試料分析は科学だが、帰還できたのは技術」というわけで、「科学技術は・・・切り離せない」といいながら、しかし、その技術の底辺を支えている中小企業の技術発展と保持にどれほどの政策的支援がなされているのだろうか。ほとんど無策に近い。彼らが、「技術」というときに念頭に置くのは、「科学の直接的応用としての技術」しかないように見受けられる。しかし、技術は、体系的で、必ずしも、「ある技術」を構成している諸要素が、同じような科学との関係を持っているわけではない。たとえば、「核心的」な部門とそれをささえる「周辺技術」にわけても、核心技術は、科学との密な関係が見られようが、実際の技術はそれだけで成り立っているわけではない。事故を想起すれば、これは容易に理解できよう。かっての日本の原子力発電所でも、最近の「もんじゅ」も、たとえば炉心での核反応制御のような「核心」部分に事故が起きたから、運転できなくなったわけではない。「核心」を支える周辺技術に問題が起これば、全体は成り立たないのである。こうした周辺技術は、様々な段階があるが、必ずしも良いとはいえない労働条件下で黙々と技術を受け継ぐ中小企業で支えられているものも多い。こうした中小企業への技術政策はほとんど無いに等しい。中小企業から離れても、国民生活の展開に、いかなる技術的課題が追求されるべきかなど総合的な技術政策も全く不足している。日本の技術の歩みの遺産を残し、そこから歴史的な示唆を与えうる技術史博物館も葬られた。
 すなわち、今の「科学技術政策」は、大型プロジェクトに偏重し、一方に科学研究に対する性急な要求と狭い枠付け、他方に技術政策的な無策、技術政策の貧困が同居しているといえよう。
金田一氏が、科学と技術が「並列だと・・・両者が分割されて、縦割りで風通しが悪くなるのでないか」と言うのは、これまでの日本の「科学技術政策」が、技術に対して無策であったことを覆い隠す言い回しになっているにすぎない。さらに、彼らは、技術はすべて科学の応用であるとだけ信じ、科学的研究課題が、技術から生まれることなど考えたこともないのではなかろうか。この点は、「科学技術」なる用語を用いて無反省の一部の科学史家も似たようなものというべきかもしれない。
科学論・技術論としても、日本の技術が、どのような特徴や長所、弱点を、どのような分野にもつか、またそれは何故なのかなどを客観的に分析しようとすれば、技術を科学の応用などという見方や、いわゆる「適用説」ではほとんど不可能であることは容易にわかるであろう。
日本学術会議と総合科学技術会議は、2005年の日本学術会議の「改組」以来、「車の両輪」であると説明されてきた。であるとするならば、総合科学技術会議が、研究の現場と結びついている日本学術会議の勧告を無視することは許されないであろう。勧告を受け入れることは、科学研究政策の問題点の是正だけでなく、技術政策にも目を向けさせるものとして必要である。
「科学技術」か「科学・技術」は、単なる用語の問題ではなく、用いる側の問題意識を反映している。(12.20修正)

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