by ihst | 3月 26th, 2012
福島第一原発事故に関連して、科学のあり方が論議を呼んでいる。3月、4月の雑誌にも
たとえば次のような論文があり、筒井哲郎論文は、「原子力村」の科学者の倫理問題としての実態を追求している。
山川充夫「原発なきフクシマへ」『世界』no.829 119-129(2012.4)
白石草「なぜ避難が認められないのか」『世界』no.829 131-138(2012.4)
守田敏也「放射線防護に市民と科学者が立ち上がった」『世界』no.829 147-154(2012.4)
筒井哲郎「原子力村に横行する利益相反」『世界』no.829 179-187(2012.4)
吉川弘之「科学者はフクシマから何を学んだか 地に墜ちた信頼を取り戻すために」『中央公論』1539号 22-29 (2012.4)
加藤尚武「テクノ・ポピュリズムとテクノ・ファシズムの深い溝」『中央公論』1539号 42-49 (2012.4)
葉上太郎「政治と科学に翻弄された福島県川内村」『中央公論』1539号 50-59 (2012.4)
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これらの議論以外にも、震災と福島原発事故をめぐって科学・技術を問い、「科学への信頼は地に墜ちた」とか、「科学者は東北では市民に受け入れてもらえない」等々の論が横行している。さもありなん。事故前に、厳しくその非科学的手法を批判されてきたラスムッセン報告を持ち出して、工学系学生に「原発のシビア・アキシデントが起きる確率は隕石が墜ちて自分に当たるより確率よりも低い」とか、「深層防護やマイナスの炉内の動作反応特性を知らないで原発を批判するのは、校門の外を歩いているおばちゃんたちと同じだ」と説く某工学系有名大学教授や、事故後にメルトダウンが起きた多くの指摘があっても、「起きていない。メルトダウンとは何のことだ、そんなのは科学的用語ではない。」とテレビ番組で司会に噛みついたり、「直ちには避難することはない、健康に問題ない」という政府の嘘言を補強しようとする「御用学者」を眼にして、そのような科学者を信じようとするほど市民はお人好しではない。事故後、事故実態を究明し復旧のために科学者としての自分たちの力を発揮して市民のために全力を尽くそうとするどころか、自分たちへの「風評被害」の懸念と自分たちの職場の再建だけを声明する数十万の学会員を要する学協会連合の声明を聞いて、誰が頼りにしたであろうか。
だが、事故に直面して、科学や技術は、2面性をもつことを、古くからの議論であるが、強調しなくてはならないであろう。科学者の社会的属性と科学的理論での特性である。
いうまでもなく、一部の科学者からの過去の大地震の存在や原発の危険性の指摘には無視し、内部告発をした技術者を東電と保安院は共同して不利益扱いにし、あるいは原発の安全研究は却下してきたのであり、そのあげくが「原子力村」であった。
「原子力村」を科学と同義語にしていいだろうか、ということである。科学や技術は一人歩きはしない。人(科学者、技術者をはじめ一般人)や社会的制度を介して社会に機能している。科学知は常に万人に有益とは限らない。ある科学知は、ある人には有益であっても、別人には刃となる。それ故に、アセトアルデヒド製造過程で有機水銀が発生するという科学的知識は隠匿されたし、放射線の人体影響に関する広島・長崎のABCCのデータももっぱら軍事目的に奉仕させられ、一般科学者からは隔離された。今日、特許制度は技術学的知識の隠蔽を知的財産の名の下に公認しているし、政府は自己の政策に貢献するーそれが科学的に正当な知識をもってであろうと、科学とは無縁な権威だけであろうとにお構いなくー科学者を高給と高研究費をもって遇し、批判的な科学者を冷遇し、また脅しをもって処する。
現実の科学は、かくも、そもそもが歪んでいるのである。科学的知識の小さな個々断片には、独自の「意志」はなく「中立」であろうが、社会的な力学・利害関係によって左右されざるを得ない。
「科学論争をやっても仕方ない」という声もある。だが、科学は、そして科学者は、なぜ「原子力村」の形成したのかを解明することなく、換言すれば、関連科学者の反省なく、科学者の取り組むべき課題は見えてこないであろう。むしろ、しばらく背を低くして風の通りすぎるのをまって、再び同じことを繰り返すであろう、形ばかりは少し変えるかもしれないが。
元日本学術会議会長・現科学技術振興機構研究開発戦略センター長のいうように「科学の信頼は失墜した」というのではなく、誰の議論が失墜したのかを直視する必要があろう。市民の直面している被曝の実態―どこが線量が高いか、何が安全か、海はどうなっている、これからの汚染はどう推移する等々―の把握と、これまではまだ明らかになっていない諸問題―低線量の影響、内部被曝や晩発性障害の発生等々―への取り組みを、そして、事故原因の解明なしには安全対策はできないという立場での取り組みがなされるかどうかが、再び科学者が市民に信頼されるどうかを決めるのである。
求められるのは、実践的な科学論である。
「科学は問題を提起はするけれど、科学だけでは解決できない領域がある」とする「トランス・サイエンス」や科学の「ガバナンス」論などが、またもや欧米からの輸入理論として一部もてはやされている。しかし、科学だけでは解決できないのは、科学が社会的存在であり社会的機能をもつときには常にあることで何も今始まったことではない。科学(理論)が絶えず変化しているので、科学的絶対的「真理」は、いわば「固定」していないとの両者の議論は、両者ともにネガテイヴに、後ろ向きにとらえている。科学が絶えず変化し新しい理論を作り出していることは歴史の真実である。今日も、未知の自然的諸現象と実態の解明に格闘が続けられているし、そこに人と社会の科学に対する期待の一側面がある。宇宙や素粒子の解明に、現在も巨大な国家予算がつぎ込まれている。
だが、低線量問題になると、現在ではまだ明確ではないことに、なぜか思考停止をし、「人体影響はわからない」といい出し、「影響があるというなら、学会に掲載された論文を示せ」と硬直化した、学会の権威構造をむき出しにする。あるいは、中川恵一氏のように、これまでの医学進歩の段階を固定化し「医学の中では低線量の影響は考えなくていい」と絶対化する。放射線の人体影響に関するデータが、過去米軍に独占され、「小出し」に、しかも広島長崎の被爆者データがもっぱら軍事的観点から収集されてきたこと、が故に低線量関係データは欠落していることを考えるならば、中川氏の言動が多くの批判を浴びたように、個々の言説はさらに謙虚に再検討される余地が十分あるように思われる。
政府の、同心円状で危険区域を設定する方式は、まったく科学的ではないことは自明となったが、単に部分的なホットスポットの存在だけでなく、そこに住んでいる住民には健康な成人だけではなく子供も幼児も新生児もいる。その実態に即した対応は、科学者側にも要求されており、中川氏のような所論は責任が問われよう。
そこに住んでいる住民の立場からの実践的な科学論が求められていることを再度強調したい。
元日本学術会議会長・現科学技術振興機構研究開発戦略センター長の吉川弘之氏も、「科学の信頼は失墜した」と科学が全体として中立であるかのごとく扮しての議論を展開している。個々には、SPEEDIが適正に使われなかったことや、日本の審議会方式など多くの問題点を指摘し、責任を明確にし、科学者の「総意」を公開する努力などを強調し、少なくとも米英のアカデミーのような体制に学ぶことを提言する。確かに、学会、学協会が社会における問題解決よりも自己の利益を優先させた先にあげた声明を出す体質は改革を要する。会合で座る順番を間違えたら科学研究費が回ってこないとまで言われるような体質では、自由な意見交換はもとより専門研究でさへ行き詰まり、政府のお下がり仕事に汲々とするだけであろう。3.11後の学会の行動に、その学会の性格の一端が現れているとみるならば、その行動も含めて過去の学会の体質を反省してみることが必要ではないのか。
吉川氏の議論に不足しているのは、たとえば氏が過去の水俣病を教訓にあげるなら、さらに、水俣病も含めて4大公害裁判全部で、政府企業側が敗訴し、科学論的にも間違っていたことに加えて、正しかったのは住民側に立った科学者であったことである。このとき、中央の著名科学者が企業側に立ち企業擁護の論理を展開したからといって、科学が住民・被害者に敗北したなどとは総括しない。間違ったのは特定の、「社会的」に権威ある科学者たちであり、今回の事態は原子力の分野で、さらに大規模になっているだけである。