by admin | 6月 21st, 2010
古代日本の通信技術 ドイツのPauer教授から、問い合わせがありました。(詳細略)。『令義解』(833年)に、 (軍防令七四) 應火筒條:凡應火筒。若向東。應筒口西開。若向西。應筒口東開。南北准此。 (軍防令七五) 白日放煙條:凡白日放煙。夜放火。先須看筒裏至實不錯。然後相應。若白日天陰霧起。望煙不見。即馳腳力遞告前烽霧開之處。依式放煙。其置烽之所。遶烽二里不得浪放煙火。 とある(他にも類似の文章有り。上記リンクの『令義解』pdfを見てください)のですが、この中の、「筒」とは、どのような形をなしたものか、誰か知りませんか?ということです。
中世の通信システムについては、武田家などが、「のろし」 による通信制度を構築したことが知られており、須玉町では『和漢三才図絵』を参考にテレビ・ロケなどを機に復元を試みられている。また、 シンポジウム「古代国家とのろし」宇都宮市実行委員会・平川南・鈴木靖民『烽(とぶひ)の道』青木書店には、のろし通信の再現実験結果が記載されている。復元の写真は、インターネットで検索すれば3,4見つけられるが、いずれも『和漢三才図絵』に似たもので、細部ははっきりしない。ましてや質問されている「筒」の形状などはもちろん、筒の有無さへはっきりしない。
他にも、 「 ・・・・・664年、対馬・壱岐・筑後国に防人と烽を置いた。これは663年に朝鮮半島白村江で、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れたことから国防のために備えた。718年、『養老令』に烽の設置間隔や上げ方を細かく定めた。これによると烽は40里毎に置かれ、烽を担当する者を烽長・烽子と呼ぶと定め、また昼は煙を上げ夜は火を上げることも決められていた。8世紀、『風土記』によると、出雲国に5ヶ所、豊後国に5ヶ所、肥前国に20ヵ所の烽があったとされている。8世紀には、平城京に通じる高見峰(生駒山)、平安京に通じる牡山(おとこやま)に烽があったことが知られている。天平年間(728~744)、新羅との関係が緊張した時、壱岐と出雲間に烽を置いて通信試験をしたことが伝わっている。740年、藤原広嗣の乱の時に、広嗣が筑前国遠賀郡下で烽を上げ、国内の兵を徴集したことが知られている。 799年、太宰府管内を除き烽の制は撤廃された。・・・・・・・」(http://www.tsugane.jp/meiji/rekisi/sutama/norosi.htmlより)
等の歴史的事実の説明もある。 また、関連する古代文献の研究を公開しているサイトもある(http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro17c.html#66)など、古代の通信システム(のろしによる軍事用途)の存在は衆知となっているが、技術の詳細は不明のままである。(『日本古代の交通と情報伝達』松原弘宣 著・本体11,000円+税・2009年は未読ですが)
どなたか、上述『令義解』の叙述の中の「筒」のことをご存じの方はいませんか?(あるいは、さらにのろし発生装置<烽・飛ぶ火>の全体の技術的事項) (投稿者木本忠昭)